• 2017/05
  • 20 Saturday
  • 21:00

SIGNAL THE END OF JAPAN ROAD

有る事に安心するあまり、在る事を不安に思う。
在る事が重要で、有る事は付随でしかないのに。

有ると安心する。
所有し、保有し、共有する。
有る事が当たり前になり過ぎて、
無いと不満ばかりを漏らし、
その感情を共有して欲しがる。

其れが行き過ぎたのか、
在る事を信じず、
在る事を邪魔に思い、
在る事を自分の目で確かめようとしない。

自分に有る感情は、誰にも同じく有ると思うのに、
無様に映る他人の在り方を、自分は同じ様にならないとする。

共感を求めながらも特別で在りたがる思考は、
ポジティブであれ、ネガティヴであれ誰もが有りがちで、
個のアイデンティティやレゾンデートル確立の為に、
自分を他者と別する事の第一段階に見られる。

其れでありながらも、他者と同じ時間や感覚が有る事で、
自分が除け者で無いと確認し、安心を得るのだから、
人という生き物は、まったく不思議だ。

莫大な量の情報や知識が便利過ぎる程に溢れ、
意見や文句を簡単に発信し共有し共感を得れる。
手軽な特別感も、手軽な安心感もすぐに手に入り、
納得のポイントへの距離は近くなり、探す事すら減る。

便利な、とても便利な世の中になった。
きっと更に便利な世の中になっていくだろうし、
納得のポイントへの距離は更に近くなる。

片手に収まるガジェットで情報も知識も娯楽も所有し、
瞬間も時間も記憶も保有させてくれるシステム。
感情も感動も真実であれ虚実であれ共有が可能。
そうして現実との空白が大きくなればなっただけ、
納得への距離は近くなり、手軽に簡単になる。

現実は、手軽に手に入る情報や知識よりも不便で、
実在する事象や事情は文句を言っても変わらない。
普段から「誰かさん」と共有して共感している何かを
街行く「誰か」に自分の言葉で説明してみたら、
感情や感動を共有したり共感してくれるのかい?

便利になって、現実は楽しくなったかい?
便利になって、世の中は良くなったのかい?

答は結局、いつの時代も変わらないまま。
何かが便利になれば、違う何かに不便を感じる。
どんな時代のどんな状態にも、人は対応しながら、
自分の理想の状態を思い描いて不満なり納得を口にする。

皆、思い描く理想は少しずつであれズレていて、
納得のポイントも各々で違いが生じるのだから、
皆にとっての絶対的な正解も絶対的な間違いも存在しない。
ただ自分にとっての正解や間違いが在るだけだ。

便利になり、選択肢が増えたかに思えるし、
画面越しに過ごす時間も確かに現実だし感情も感動も在る。
そのまま画面越しを選ぶのも自由だし間違いでも無い。
きっと、この先の時代は更に常識は変化していき、
理解って言葉の意味も理解出来無いぐらいに変わり、
判断は曖昧になり、対象は実在の模倣に移って、
ヴィジョンだけが必要とされ、文脈は不要になる頃には、
ルールやシステムは、有る者のセオリーだけで構成される。
其れは其れで良い。其れが流転し収束するって事だ。

でも、そんな時代の夢って何だろう?
そんな時代に向かっている最中の夢って何だろう?

画面越しに見るんじゃなくて、実在に触れる。
空気感、緊張感、脅威、恐怖、生と死の境界線。
言葉も無く、同じ時間と空間で事象に向かって得る共感。
其処には、指先一つで示す「いいね」すら必要としない。
旅を繰り返す中で、そんな時間が幾度も在った。

ガキだった頃、手にしたい物は常に遠くに在ると、
足りない頭と少ない情報だけで勝手に思い込んでた。
だから、早く走らなきゃいけねぇと思って突っ走れた。

現代の大多数は、手にしたい物が近くに在ると、
莫大な情報を見るだけで勝手に思い込んでる。
だから、走る必要を感じないでいられるんだろうか?
そんな考えが、そもそも現代に合ってないんだろう、俺。

でも、突っ走って頑なに張って、実在に辿り着くと解る。
足りない頭と少ない情報で遠いと思い込んでたんじゃなく、
実際はもっと遠く、手にするには時間が足らない。

自分の精神、肉体、技術、生き方、残された時間を
辿り着きたい夢までの距離に照らし合わせ考える。
時間もスピードも足らない。
もう、これ以上の寄り道はしてられなさそうだ、俺。

何処かへ行き何かを創る何処かを
変える為の終りのSIGNALが見えた。
旅の答がそうならば終りにしよう、俺。

また、一つの旅の終りの日に。

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