• 2018/06
  • 19 Tuesday
  • 23:00

LAST×FAST 09

誰もが本当の事を言わなくなる。

何かを発言したり、発信する度に反対の意見が出て、
反対の意見は当然と思えても、揶揄や下衆の勘ぐり、
ともすれば発言や発信の内容が不謹慎だとされる。

エチケットやマナーやコンプライアンスが凶器になり、
平等や公平が叫ばれ清廉潔白な意見が求められる。

誰もが、差別の無い平和的な意見になるよう注意し、
非難から避難する様に誹謗中傷を避け発言し発信するが、
其処に、本当の意見は存在するのだろうか?

悪意の無い、個人の好き嫌いでの意見すら、
非常識で不謹慎だと揶揄される事になれば、
誰も本当の事を言わなくなるだろう。

嘘や誤魔化しが増えていく中で、鬱積した本当は、
どんな歪んだカタチで現れるのだろう。


CHAPTER:09
SOLID, BATTLE FIELD


強さは常に試される。
強さを測り決める基準は明確には存在しないが、
平均を軸に目安としての、肉体や精神や経済や暴力など、
様々な事で強さは表され、優劣や格差は示される。

明確に基準が存在しなくとも、強さとは何か?を
単純な一言で表すとするならば、能力の高さだろう。

能力の高い者を「強者」能力の低い者を「弱者」とする。
その目安そのものが少しズレた感覚とも思えるが、
如何せん世間の風潮は、能力の高い者と低い者を別けたがる。

そうした風潮を前提にして話を進めてみると、
強者は持てる者、弱者は持たざる者となるのは当然だが、
昨今の世界で止め処なく流れてくる情報の多くは、
弱者(もしくは弱者を装う人々)が権利や賠償を求め、
世間の意見や風潮がその後押しをするケースが散見される。

弱者が虐げられて黙っていなければならない決まりは無く、
弱者の立場を考えずに搾取する強者を見過ごす事は無いが、
人種や性別や障害等の明確な弱者的立場に留まらず、
経済的立場や精神的優位に加え情報でも強者弱者が問われ、
これもまたズレた感覚に思えてしまうのだが、
強者は分け与えるべき。と、する意見が少なくない。

こうした話の中を歩みながら疑問に思うのだが、
明確な弱者では無く、弱者的な立場に居る人達は、
何故、弱者的な立場を脱しようとしないのだろうか?

「弱いのだから当たり前だ」と言う意見が出てきそうだが、
疑問の本質としては、弱者に甘んじる理由を考察したい。

肉体的障害、精神的障害、生まれながらの障害は、
現代社会でも明確に生き難いのは周知の事実だし、
後天性にしても数々の困難が存在する事は誰もが知っている。

だが、生まれ持った障害と、生まれによる差は別のモノだし、
後天性の障害と、後天的な差もまた別のモノであって、
障害と差は別けて考えるべきでは無いのだろうか。

先天性の障害や差を「運」という言葉で括ると、
後天性の障害もまた「運」という以外に無くなるが、
後天的な差は「運」によるものでは無く、
本人の積み重ねに因るところが大きい。

「喋りが上手いヤツはいいよな」
「結局は金持ちがモテんだよ」
「強いヤツは平気だろうけどさ」
そんな言葉を口にしたり、気持ちを持った事は?

一度も無いのであれば、この考察を読む必要は無いが、
口にしたり思った事が有る人に聞いてみたい。

何故、喋りが上手くなろうと努力しなかった?
何故、金持ちになろうと能力を磨く事を怠った?
何故、強くなり平常心を保てる自分にならなかった?

この質問に対して、「だって」や「でも」は、
先天性・後天性の障害を持つ人だけが使うべきで、
先天的であれ後天的であれ、差を理由に使うのは、
自己中心的な言い訳に過ぎないのではないだろうか?

「努力しようとしたが出来なかった」
「積み重ねが必要だと気付いてなかった」
「頑張っていたが上手くいかなかった」
其れらは全て、自分の選択ミスでしかないし、
他人を妬んだり、誰かに権利を主張するべきモノじゃない。

歳を重ね、自分の理想や望んだ結果が得られなかった時、
「こんな事になるなんて知らなかった」
と嘆くのは簡単だし自由だが、責任は全て自分に有り、
知らなかった事が間違いじゃなかったとしても、
積み重ねず磨きもせずに生きていて弱者になったのに、
状況や環境に文句を言い、他人を妬み権利を主張するのは、
浅ましく卑しいと思わないだろうか?

さて、考察は程々にしておいて、話を本筋に戻そう。
努力を積み重ね、能力を磨き、運を掴む事が出来た者。
其れを強者とした時に、その実績を表す一つとして、
世界的に共通するのは、金銭的な裕福さである。

「金銭的な裕福さ」は、特に誹謗中傷の的になり易いが、
その原因は、単なる妬みや嫉みであるだけで無く、
「金銭的な裕福さ」が、どの様なモノかを知らないからであり、
弱者が強者の心理を理解していない事によく似ている。

「金銭的な裕福さ」はあくまでも指標でしかなく、
本質的な強さとは別のところに存在するのだが、
兎角、同一視され妬まれがちなモノだ。

その理由の多くは、経済力は権力や支配力を生むからで、
様々な宗教で御立派な建造物を見るだけでも解る事で、
先に権力や支配力は生まれず、経済力が権力と支配を生む。
そうでもなく可能なのは、絶対的な暴力ぐらいのものだ。

経済力にしろ暴力にしろ継続に必要になるのは、
やはり積み重ね磨き上げた能力の高さであるが、
能力の高い者は強者として扱われ、常に試される。

先に述べた様に、強者は様々なモノを得る事が出来るが、
保有し続けるのが容易で無い事は想像に難くなく、
何処までいっても、弱肉強食のルールからは逃れられない。

其れに比べて、弱者的な立場でいようとする者は気楽だ。
一定の搾取の対価として一定の保障が用意され、
言論・思想・宗教の自由を公の場で疑問視される事は少なく、
匿名性を隠れ蓑に意見も文句も言いたい放題。
公的な責任を問われても、一般市民という立場を盾にし、
弱肉強食のルールが間違ってると騒ぎだす。
と、並べ立てるのはあまりにも偏見的だろうか?

だが、昨今の情勢を鑑みると並べ立てての疑問視も湧くし、
弱者的な立場から、強者を自分達のレベルに引き下げようと、
躍起になって不満を並べ立てる事象が目に余る程で、
その労力を、自己を高める事に使わないのが不思議でならない。

確かに大変な事ではある。
と、前置きをせずに述べるのが憚れるが、
職場の辛さや、妊娠・育児の辛さや、生活の辛さ、
その原因・責任の多くを、社会や環境や政治に求め、
生産的よりも否定的な意見と権利の主張を繰り返す。
そしてその挙句が、持てる者・強者への誹謗中傷や、
妬み嫉みが綯交ぜになった恣意的な文句になる。

自分が辛く大変だからと他人を羨み妬んでは、
嫌な事を並べて順に文句や苦情を述べるが、
嫌な事を嫌だと思ってしまう自分を直す気は無いのだろうか?

辛く嫌な事態や状況を生み出したのは自分だと、
省みて、努力を積み重ねて強い自分になるよりも、
文句と権利の主張をする方が、楽だからだろうか?

楽なのは文句を言って権利の主張をする方だとしても、
幸福感や充実した時間を多く得られるのは、
努力を積み重ねて強い自分になる方だと思うのだが。

哲学者のニーチェは、キリスト教に対して、
「弱者によるルサンチマンの反逆」としているが、
今日では、キリスト教的な道徳に限らず多くの人が、
弱者的な自分達の水準まで、強者を引き下げようとする。

アレが良くない、コレも悪い、ソレは不謹慎だ。
と、如何にも正当な道徳や倫理感で語るふりで苦言を呈すが、
本当は、アレもコレもソレも自分が嫌なだけじゃないだろうか?
其れは、弱者的な立場を利用した単なる我儘な意見で、
我慢や忍耐を持つ努力を怠った、愚者でしかない。

価値基準や責任を外側に求め、自分達の権利は主張する。
もし、価値基準も責任も外側(強者や権力側)が果たし、
主張した権利もまた全て保障される社会になったとしたら、
その皺寄せは弱者的な立場の人達へと矛先を向けるだけだ。

つまり、
強者は常に試され、分け与えろと迫られ続けると、
表向きは弱者の意見を聞き、権利主張に応じるが、
正当でない、弱者のルサンチマンが原動力の場合、
強者は鬱積した本当を原動力に、本当を隠して搾取を増やす。

そうなってら、今度は何処に弱者の権利を向ける?
気が付かぬうちに増幅した搾取が自業自得だと理解せず、
更に弱者のルサンチマンを募らせて叫ぶだけだろうか?
其れこそ、弱者ですらない愚者というヤツだ。


創り手として、ブランドとして、長い時間を過ごす中で、
何時の間にか組み上がり決め付けられていく、
自分が思ってもいない、権力や立場や強者としての扱い。

そんなモノが欲しくて、積み重ね磨き続けてはいないし、
強さは、金銭的な裕福さでは無く、貫く意思だと思っている。

貫く意思が、シンプルでストレートにぶつかり合う。
クリエイションのスピードと暴力を出し合って、
果たしてどんなカタチが生み出されるのか?
そんな強さの試し合いこそが面白い。

売上げで競い金銭的な裕福さを誇る強者にも、
影でコソコソと文句と自己主張を繰り返す弱者にも、
グダグダと行動しない言い訳を並べ立てる愚者にも、
なりたくもないし、なろうとも思わない。

クリエイションの暴力で殴り飛ばして、
クリエイションのスピードで旅をする。
そんな奴が業界にとって迷惑でしかないと言うなら、
常に、悪者で構わないぜ、俺。

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