• 2018/06
  • 27 Wednesday
  • 23:00

LAST×FAST 10

事実や現実や真実を在るが儘に見る事は難しく、
見る者の状態、主観や想像が常に付いて回る。

冷静な状態であると自分で認識していても、
自らの価値観という呪縛は、フィルターを用意し、
有りの侭、在るが儘を歪ませる。

其の歪みを歪みと認識出来るか否かは、
己の歪みを歪みと認識出来るか否かと同じ事だが、
世間には歪みを歪みとしないフィルターが常に存在する。


CHAPTER:10
BUILT FOR SPEED


額装され美術館に飾られ宣伝された絵画と、
日常的に目にするスーパーのチラシとでは、
絵画の方に価値が在り見るに値するのが一般的。
所謂、普通という事になるだろう。

其の考え方が間違いなのでは無いが、一方的ではある。
額装され美術館に飾られ宣伝される絵画に向かい合う時、
鑑賞しながら貴方は物事の本質を見ているだろうか?

常に、常識や一般的や普通というフィルターが存在し、
物事の捉え方を限定し、多面性を否定しようとする。

もしも、貴方が家計の苦しい家庭の主婦であり、
厳しい家計で食事を賄わなければならないなら、
美術館に飾られた絵画の鑑賞に時間とお金を使うより、
スーパーのチラシに目を通して安い食材を買うだろう。
つまり、スーパーのチラシに価値が在る事になる。

美術品やアートには確かに力も価値も在るが、
価値は見る側の状態や状況によって変化するし、
美術に詳しいからセンスが良いわけでも何でもない。

事象や表現から何某かのインスピレーションや感覚を得て、
セレクトが一般的で無く多少の突飛さを持っていると、
感受性豊かでセンスが良いと定義されるが、
其の定義をしているのは、普通と言われる感覚だ。

本当に感受性が豊かならば、路傍の石にすら価値を見出せるし、
自分の呼吸や心音からリズムもスピードも得る事が可能で、
一般的にセンスが良いと思われるのは知識や見物だが、
センスは知識や見物で広げる事で磨かれるのでは無く、
感じ、得る能力を高める事で磨かれるものだ。

一般的な目線の感受性豊かな人というレッテルや、
普通の感覚で捉えた、センスの良さという定義が欲しいなら、
それほど難しくも大変でも無い。

少し、来た道に歩みを戻してから話を進めよう。
CHAPTER:04で、詐欺師の問題を出したのだが、
少なくとも現在迄に正解した者が一人もおらず、
解説をする必要が出てきたようだ。
先ずは今一度、問題を提示しておこう。

詐欺師から例えば、こんな話をされたらどうだろう?

駅前の商店街の東にある「焼烏屋」と、
駅前商店街の西にある「焼鳥屋」では、
どちらの方が儲かっているだろうか?
貴方は頭が良くて注意深い人だから、
きっとすぐに答が解りましたよね?

陳腐な例題だが、注意すべき言葉は最後の一行だ。
さて、正解は何だろうか?

解説するにあたって、いくつか補足しておくと、
「これ知ってます?」とか「問題です」むたいな言葉、
その言葉一つで、別の方向を向いていた思考は振り向く。
人の関心や好奇心は「問い掛け」に弱いのだ。

更に、問題が難しくなければ「わざわざそんな問いを?」と、
猜疑心を煽られ、「解りますよね?」と言われれば、
恥や自尊心が邪魔をして注意力や洞察力を揺さぶられる。

つまり、
「問い掛け」に対して思考を振り向かせられる事は、
相手が詐欺師の場合、全て不正解へと繋がる。

この問題の文中には、いくつかミスリードのポイントがある。
「駅前の商店街」「駅前商店街」や「東」「西」という、
言葉や方角で違いがあると思わせるポイント。

「焼烏屋」「焼鳥屋」というパッと見の注意力を誘い、
問題の解答に繋がるのだと思い込ませる為のポイント。

ヒントは文中にしっかりと書いてあって、
「きっとすぐに答が解りましたよね?」
の後に、「さて、正解は何だろうか?」と問い掛けている。

先にも触れたが、最もミスリードし易いのは、
コレが詐欺師からの問題だという事を忘れてしまう点だ。

詐欺師から何を問い掛けられようが一番の正解は、
話を聞かずに無視する事に決まっている。

さて、この詐欺師の問題での正解に対して、
納得がいかないという人も多いかもしれないが、
その理由は問題自体がどうというよりも、
問題を出したのが誰か?ではないだろうか?

この問題が、こうした場で俺が書いたのでは無くて、
著名な心理学者や犯罪学者が書いたとしたら、
納得する人の数は極端に多くなるだろう。

其れこそが本文中に書かれた、見る側の状態や状況。
つまり、学歴や資格や権威が納得させてくれているだけで、
価値が在ると言われると価値を感じる自分になってしまう。

其れは、額装され美術館に飾られ宣伝された絵画を鑑賞する、
その際は冷静な自分では無くて鑑賞する自分であり、
物事の本質に目を向けず正解を認めない自分と同じだ。

話を元の地点に戻し、考察と話の歩みを続けよう。
何某かの事象に対して、或いは誰かの表現に対して、
誰もが意見を持ち考察する権利を有するし、
時として、その意見を誰かにぶつける事も可能だが、
常に其れが正しいとは限らないし、権利で無い時もある。

只でさえ、人は自分が関わりの浅い事象や表現に対して、
好き勝手な意見を持つくせに考察は少なくなり、
自説の正しさを固める為に批判や無関係な例題を用意する。

こうした思考に向かう人達に多く見られるのが、
「主人公症候群」とでも言うべき自己中心性であり、
確かに、個人の人生に於いては其の個人が主人公だが、
流転する世界の最中であれば誰もが脇役になり、
事象や表現毎に主人公は入れ替わるのが常となる。

それでも、自分の主張や権利を振りかざす人は多く、
「自分がストーリーの中心」である立場を疑わない。
其れは正しくもあり、其れが間違いでもある。

事実や現実や真実に限らず、凡ゆる事象を球体と捉えてみる。
自分の立場から見た球体は、他の立場からとは違い、
ハッキリと認識可能なのは真正面の一部だけだ。
他の部分は歪んで眼に映るので正確さは無い。

関わる全ての立場から球体を見る事が出来たとして、
正確にその球体を捉えたつもりになっていても、
球体の内面・中心を見る事は出来るだろうか?
もしくは、中心に立って全てを内側から見渡す事が?

人類は有史以来、月の裏側を見るのに何年掛かった?
猿から人へ進化して以降と捉えてみたとしても、
実に600万年もの時間を経て、月の裏側を観測している。

其れなのに、人類は有史から様々な月に纏わる話をし、
各地で伝説や伝承が繰り返されてきた事を考えると、
実に間抜けな事のようにすら思えてこないだろうか?

そして、
地球の中心には未だに到達すら出来てやしない。
それでも、地球の様々な事を好き勝手に語り、
自分の知るだけの世界で生きてしまうのが普通とされる。

果たして、そんな普通は正しくて素晴らしいだろうか?


異常だと言われる事が子供の頃から普通だった。
別に否定する気も無く、受け入れる気も無かったが、
自分にとっては自分の生き方が普通だった。

今でも、そんな生き方を続けている自分を鑑みて、
悲しくも嬉しくも無いのは、其れが自分には普通だからだ。

表現の為に生活や人生を費やす事が普通だと、
そう思って仕事をし、旅を続けてきたが、
どうやら其れも世間では普通じゃ無いらしい。

何かを創る為に、タトゥーコンベンションに行く事も、
どうやらシルバーアクセ業界では普通じゃ無いらしい。

BUILT FOR SPEED
仕事とは、自分の信念に仕える事。
自分に必要なスピードの為に、自分の旅が在る。

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