- 2018/05
- 31 Thursday
- 23:00
LAST×FAST 06
可能性は全ての岐路において想定可能だが実現は少ない。
選択を一つすると、其のベクトルでの実現可能数は定まり、
後は自分の速度が実現するか否かを決める。
「読み違える」という言葉が当て嵌るのは、
岐路における可能性の想定や選択を違えた際よりも、
自分の速度を正確に認識出来ていない事や、
岐路に立っている事自体に気が付いていない場合が多い。
振り返って、
可能性が存在していた事、岐路での選択が出来た事、
自分の速度が早ければ、もしくは遅ければ実現していた何か、
其れ等を知った時に人は、口惜しさからか、
恰も自分にも資格や権利が有ったかの様に語る。
口惜しさで語るだけならば、さして弊害も無いが、
過ぎ去った岐路での可能性を権利の様に主張した時、
その人は、現実よりも残像の中で生きてしまっている。
CHAPTER:06
LOCAL MASH UP EXHIBITION
権利の話から歩み始めるとすると、GDPRが思い浮かぶ。
余りにも時事ネタに寄り過ぎな向きもあるが、
個人のプライバシーは誰にとっても重要だし、
権利について解り易い話である事は確かだろう。
今や誰にとっても他人事では無くなった、個人情報の扱い。
インターネットの普及に伴い個人情報はデータ化され、
サーチエンジンやエレクトロニックコマースの発展、
特にSNSが発展し普及する事で個人情報の蒐集は加速し、
莫大な利益を生み出している事は誰もが知るところだ。
検索エンジンやSNSの利用規約に全て目を通して理解し、
個人情報の取り扱いについて全ての可能性を考慮してから、
貴方は無料のサービスを受ける事にしただろうか?
インターネット上の各種サービスが可能性を広げたが、
同時に利用者は個人情報に対する権利を失った。
個人情報の蒐集については明文化されていたとしても、
全ての可能性を考慮する為の理解し易い説明を用意せず、
利用者は一方的に個人情報を蒐集され売られ続けてきた。
無料で提供されるインターネットサービスは、
無料ではあっても、無償での提供では無く、
プライバシーの権利放棄という高い代償を支払わされる。
FacebookやGoogleに代表される米国企業の成長を鑑みれば、
無料のサービスへの対価が如何に高いか解るだろう。
行き過ぎて肥大化したシステムには必ず反発が起こる。
個人情報保護、データ保護のルールとして、
この程EUでは、長く課題だったGDPRが全面的に施行され、
漸く個人の権利を取り戻す為に法が戦える状態になったが、
米国やデータ大手企業は難色を示したままだし、
対応と説明は遅れがちで要を得ない点が多い。
General Data Protection RegulationつまりGDPRは、
日本では、一般データ保護規則と呼ばれ馴染みが薄いが、
この何年もEUでは施行まで様々なやり取りが行われてきた。
GDPRに馴染みが無くとも「忘れられる権利」等の言葉なら、
この何年間かに見聞きした事があるのでは無いだろうか?
要は、インターネット上での個人情報取り扱いへの規則だ。
長い歩みになってしまうので、要点だけを踏んで進めよう。
個人のプライバシーは、その個人と同じく存在だけが権利だ。
存在する権利は、それ以上でも以下でも無いが、
個人のプライバシーに関わらず、存在は金に換算可能だ。
年齢性別、出身居住、思想、職業、身体特徴、趣味・嗜好。
個人情報は無料のインターネットサービスを利用すると、
サービスを提供する企業によってデータとして蒐集され、
広告宣伝や政治的なキャンペーンへと利用される。
個人情報が漏洩しての話では無く、データは買い取られ、
蒐集された情報はアルゴリズムによって最適化され、
利用したい側によって個人の思考ベクトルは操られる。
無料でサービスを受けれて便利で楽しめて、
痒い所に手が届く感じで情報が得られて何が悪いの?
そんな声が道の反対側から聞こえてきそうだが、
話の歩みを進めよう。
現代社会では個人情報が蒐集される事自体は珍しく無く、
寧ろプライベートを自己発信したがる人も多いし、
自分の情報が利用される程度なら大した問題でも無いし、
アルゴリズムで最適化された情報を享受出来た方が、
時間も労力も割かず、より有意義な生活が出来る。
そんな人達の方が多いのかも知れない。
では、便利に最適化されたとされる情報を享受出来るとして、
其処からの岐路と選択が本当に自分のものだと言えるのか?
個人のプライバシーという存在が持つ権利や、
自分が労しても得られない情報や可能性と引き換えに、
個人情報の権利だけで無く、考えるという権利も奪われる。
思考する権利こそが人が持つ最大の自由の筈だ。
要点だけを踏む筈がGDPRの話が長くなり過ぎた、先を急ごう。
時折、人は権利と可能性の期限を忘れる。
幼少期に、暴力や性的虐待や所謂ネグレクトを受けると、
陰湿で内向的な性格や、屈折した精神構造になる。
と、現在では広く知られるところになり、
体罰等の禁止が叫ばれる様になって久しい。
だが、多くの情報が取り違えられている様に、
あくまでも可能性として注意勧告されているまでであり、
育て方や躾、教育だけが人格や精神を左右するのでは無い。
可能性は可能性として捉えなければならないのだが、
取り違えが行き過ぎると、可能性を権利の様に扱う。
自分は虐待を受けて育ったから、捻くれて当然だと。
親のネグレクトによって陰湿で歪んだ性格になったと。
可能性では無く、そうでいられる権利の様に語る。
可能性であり要因の一つでしかない事を
権利であり原因だと断じてしまう短略さは、
その人が持つ問題点をその人が思う重さよりも、
とても軽いモノに感じさせてしまう。
何かを成そうとする際に使う言葉として、
「壁がある」の様な言い回しを一度ならず耳にすると思う。
目標や目的に向かう進行を妨げる何かを指し、
壁とする解り易く一般化した例えにも聞こえる。
つまり、便宜上は妨げを障壁とするとして、
その壁は本当に進行を妨げる為の障壁なのか?
壁は妨げもするが、壁は防ぎもする物で、
進行出来ない理由でもあるが、進行しない理由にもなる。
過去にそうなる可能性が存在したからと言って、
現在を思考するのを止めて障壁を設け進めなくなる。
そうやって現在や未来の可能性を閉じてしまう事は、
自分の速度を落として、良くない筈の現状維持なだけで、
やがては現状維持すらも不可能になってしまう。
万物は留まらず、流転の速度は人が思うより遥かに早い。
アルゴリズムで最適化された情報に身を任せて、
楽で便利だからと存在した筈の可能性を潰してしまうのと、
過去の可能性に責任を転嫁して、障壁を言い訳にし、
岐路も選択肢も存在しないと現状維持の権利を宣うのと、
双方に共通するのは他人に何かを奪われた事では無い。
思考を止めて自らの可能性や岐路を失っただけだ。
時が過ぎて、
失った自分の可能性を権利の様に主張しても、
過去の岐路は、残像でしかないので応えてはくれない。
失った何かを取り戻す道は常に険しい。
取り戻す事が叶わぬ方が多いと言わざるを得ない。
それでも、過去の岐路を見て可能性を主張するのでは無く、
現在の岐路を見極め選択し自分の速度を上げる。
可能性はその中でしか実現しない。
LOCAL MASH UP EXHIBITIONで共に動いたブランドは、
事情は其々にしても、過去に岐路や可能性を失っていた。
その事を振り返って、その頃を取り戻そうなんて、
甘い考えだったなら共に動くなんて選択はしなかっただろう。
現在を見て、可能性を実現させる為に速度を上げる。
その時に、思考を巡らせ行動する権利は価値を持つ。
選択を一つすると、其のベクトルでの実現可能数は定まり、
後は自分の速度が実現するか否かを決める。
「読み違える」という言葉が当て嵌るのは、
岐路における可能性の想定や選択を違えた際よりも、
自分の速度を正確に認識出来ていない事や、
岐路に立っている事自体に気が付いていない場合が多い。
振り返って、
可能性が存在していた事、岐路での選択が出来た事、
自分の速度が早ければ、もしくは遅ければ実現していた何か、
其れ等を知った時に人は、口惜しさからか、
恰も自分にも資格や権利が有ったかの様に語る。
口惜しさで語るだけならば、さして弊害も無いが、
過ぎ去った岐路での可能性を権利の様に主張した時、
その人は、現実よりも残像の中で生きてしまっている。
CHAPTER:06
LOCAL MASH UP EXHIBITION
権利の話から歩み始めるとすると、GDPRが思い浮かぶ。
余りにも時事ネタに寄り過ぎな向きもあるが、
個人のプライバシーは誰にとっても重要だし、
権利について解り易い話である事は確かだろう。
今や誰にとっても他人事では無くなった、個人情報の扱い。
インターネットの普及に伴い個人情報はデータ化され、
サーチエンジンやエレクトロニックコマースの発展、
特にSNSが発展し普及する事で個人情報の蒐集は加速し、
莫大な利益を生み出している事は誰もが知るところだ。
検索エンジンやSNSの利用規約に全て目を通して理解し、
個人情報の取り扱いについて全ての可能性を考慮してから、
貴方は無料のサービスを受ける事にしただろうか?
インターネット上の各種サービスが可能性を広げたが、
同時に利用者は個人情報に対する権利を失った。
個人情報の蒐集については明文化されていたとしても、
全ての可能性を考慮する為の理解し易い説明を用意せず、
利用者は一方的に個人情報を蒐集され売られ続けてきた。
無料で提供されるインターネットサービスは、
無料ではあっても、無償での提供では無く、
プライバシーの権利放棄という高い代償を支払わされる。
FacebookやGoogleに代表される米国企業の成長を鑑みれば、
無料のサービスへの対価が如何に高いか解るだろう。
行き過ぎて肥大化したシステムには必ず反発が起こる。
個人情報保護、データ保護のルールとして、
この程EUでは、長く課題だったGDPRが全面的に施行され、
漸く個人の権利を取り戻す為に法が戦える状態になったが、
米国やデータ大手企業は難色を示したままだし、
対応と説明は遅れがちで要を得ない点が多い。
General Data Protection RegulationつまりGDPRは、
日本では、一般データ保護規則と呼ばれ馴染みが薄いが、
この何年もEUでは施行まで様々なやり取りが行われてきた。
GDPRに馴染みが無くとも「忘れられる権利」等の言葉なら、
この何年間かに見聞きした事があるのでは無いだろうか?
要は、インターネット上での個人情報取り扱いへの規則だ。
長い歩みになってしまうので、要点だけを踏んで進めよう。
個人のプライバシーは、その個人と同じく存在だけが権利だ。
存在する権利は、それ以上でも以下でも無いが、
個人のプライバシーに関わらず、存在は金に換算可能だ。
年齢性別、出身居住、思想、職業、身体特徴、趣味・嗜好。
個人情報は無料のインターネットサービスを利用すると、
サービスを提供する企業によってデータとして蒐集され、
広告宣伝や政治的なキャンペーンへと利用される。
個人情報が漏洩しての話では無く、データは買い取られ、
蒐集された情報はアルゴリズムによって最適化され、
利用したい側によって個人の思考ベクトルは操られる。
無料でサービスを受けれて便利で楽しめて、
痒い所に手が届く感じで情報が得られて何が悪いの?
そんな声が道の反対側から聞こえてきそうだが、
話の歩みを進めよう。
現代社会では個人情報が蒐集される事自体は珍しく無く、
寧ろプライベートを自己発信したがる人も多いし、
自分の情報が利用される程度なら大した問題でも無いし、
アルゴリズムで最適化された情報を享受出来た方が、
時間も労力も割かず、より有意義な生活が出来る。
そんな人達の方が多いのかも知れない。
では、便利に最適化されたとされる情報を享受出来るとして、
其処からの岐路と選択が本当に自分のものだと言えるのか?
個人のプライバシーという存在が持つ権利や、
自分が労しても得られない情報や可能性と引き換えに、
個人情報の権利だけで無く、考えるという権利も奪われる。
思考する権利こそが人が持つ最大の自由の筈だ。
要点だけを踏む筈がGDPRの話が長くなり過ぎた、先を急ごう。
時折、人は権利と可能性の期限を忘れる。
幼少期に、暴力や性的虐待や所謂ネグレクトを受けると、
陰湿で内向的な性格や、屈折した精神構造になる。
と、現在では広く知られるところになり、
体罰等の禁止が叫ばれる様になって久しい。
だが、多くの情報が取り違えられている様に、
あくまでも可能性として注意勧告されているまでであり、
育て方や躾、教育だけが人格や精神を左右するのでは無い。
可能性は可能性として捉えなければならないのだが、
取り違えが行き過ぎると、可能性を権利の様に扱う。
自分は虐待を受けて育ったから、捻くれて当然だと。
親のネグレクトによって陰湿で歪んだ性格になったと。
可能性では無く、そうでいられる権利の様に語る。
可能性であり要因の一つでしかない事を
権利であり原因だと断じてしまう短略さは、
その人が持つ問題点をその人が思う重さよりも、
とても軽いモノに感じさせてしまう。
何かを成そうとする際に使う言葉として、
「壁がある」の様な言い回しを一度ならず耳にすると思う。
目標や目的に向かう進行を妨げる何かを指し、
壁とする解り易く一般化した例えにも聞こえる。
つまり、便宜上は妨げを障壁とするとして、
その壁は本当に進行を妨げる為の障壁なのか?
壁は妨げもするが、壁は防ぎもする物で、
進行出来ない理由でもあるが、進行しない理由にもなる。
過去にそうなる可能性が存在したからと言って、
現在を思考するのを止めて障壁を設け進めなくなる。
そうやって現在や未来の可能性を閉じてしまう事は、
自分の速度を落として、良くない筈の現状維持なだけで、
やがては現状維持すらも不可能になってしまう。
万物は留まらず、流転の速度は人が思うより遥かに早い。
アルゴリズムで最適化された情報に身を任せて、
楽で便利だからと存在した筈の可能性を潰してしまうのと、
過去の可能性に責任を転嫁して、障壁を言い訳にし、
岐路も選択肢も存在しないと現状維持の権利を宣うのと、
双方に共通するのは他人に何かを奪われた事では無い。
思考を止めて自らの可能性や岐路を失っただけだ。
時が過ぎて、
失った自分の可能性を権利の様に主張しても、
過去の岐路は、残像でしかないので応えてはくれない。
失った何かを取り戻す道は常に険しい。
取り戻す事が叶わぬ方が多いと言わざるを得ない。
それでも、過去の岐路を見て可能性を主張するのでは無く、
現在の岐路を見極め選択し自分の速度を上げる。
可能性はその中でしか実現しない。
LOCAL MASH UP EXHIBITIONで共に動いたブランドは、
事情は其々にしても、過去に岐路や可能性を失っていた。
その事を振り返って、その頃を取り戻そうなんて、
甘い考えだったなら共に動くなんて選択はしなかっただろう。
現在を見て、可能性を実現させる為に速度を上げる。
その時に、思考を巡らせ行動する権利は価値を持つ。