• 2019/05
  • 31 Friday
  • 22:58

LIBERATOR



今日が終わる。毎日毎日、今日が終わる。
当たり前の様に区切られた時間ってヤツで今日は終わり、
さっさと明日へ行けと陽が沈んで昇ってを繰り返す。

まだ何も掴めていないのに今日は、
まだ何も変わってないのに今日は、
まだ何も出来ていないのに今日は、
終わってしまって明日へと向かわせる。

旅も同じ様に留まっていたくても次へ向かわせる。
でも、次へ向かわせるのは沈んで昇ってを繰り返す陽じゃなく、
次を見たいと思っている自分でしかない。

今日を閉じて明日を開く。
開放では無く、解放する様に開いていく。

足跡は過ぎ去る今日と共にいつか何処かへ消えて、
突っ走った旅の果てに違う景色を目にするだけ。

解放された何かは解放された事を知らない。
解放された誰かは解放された事を知らない。
知られる事に意味なんかありゃしない。

開いた扉を扉とも思わずに誰かが通り過ぎ、
足跡は誰かの足跡で固まって道となっていく。
そんな夢を見る事が無いと言えば嘘になるけれど、
夢は語っているだけならば、いつまでも夢のまま。
夢を実現したらなば、それは現実になる。


語るだけの夢は何処へも繋がらずに漂うだけ、
実現して解放し続ける事だけが何処かへと繋がる。

今日が終わるその前に、夢を解放しなくちゃいけない。

そんな旅も終わり、また次の旅に出る日が来るだろう。

旅の果てがいつか来るまでの何処かで、またの日に。
  • 2019/05
  • 30 Thursday
  • 23:33

都合のいいプライド

正しさの位置みたいな事を考える時がある。
一つの事象を100人が見れば100人の正しさがあり、
その中でも似た正しさや近い正しさを集めて、
多数決で正しさを決めるのが正しいとされる。

似てるとか近しいのが同一かの様に扱われると、
実は正しさの位置は定まっていないままなのだが、
正しさが長くそのままだと絶対的になりがちだし、
多くは時代の変化の速度に比べて見直されるのが遅い。

この話の場合は日本ならば「憲法第9条」が解り易いし、
身近な問題としてなら年金制度の問題などがあり、
正しさの位置を定めてからの時間が長過ぎて、
正しさに多くの間違いが貼り付いてしまった例だろう。

正しさ或いは正しさと思い込んでいる物事は、
その位置を高くすればする程に誇りを増す。
所謂、プライドが高くなるって状態だ。

正しさと同じくプライドの位置を変えるのは難しい。
いつの間にか大きくなったり主軸になって、
プライドを持って取り掛かるのが大切なんじゃなくて、
プライドを持っているだけで大事に変わる。

持ってるだけで大事。
そんな都合のいいプライドなんてねーよ。

語るだけの正しさも、語るだけで叶う夢なんてのも無いし、
想うだけでカタチになる正しさも夢もありゃしない。
それでも、語ったり想ってるだけでプライドの位置を決める。

様々な場面で都合良く使われるプライドは、
「誇り」じゃなくて、「埃」みてぇな言い訳でしかない。

誇るからには誇るだけの実績が必要になる筈だし、
脳内で論理や想定が有れば実績になる訳じゃなし。
語ったり電脳世界に書き込めばカタチになるでも無い。
其れは単なる記憶と記録の積み上がりで終わる。

誇り持ってた夢はいつの間にか、
埃被った夢に変わって、
何もしない為の言い訳になった。

そんな事にならない様に、
今日も正しさの位置を考える。

  • 2019/05
  • 29 Wednesday
  • 22:18

合理性



合理的な物事の捉え方には感情が不要になるが、
感情を無視して物事を進めると合理性を損なう。

感情で物事を捉えて進めるている人が存在する以上は、
合理性に人の感情を含めなければならない事は、
誰もが薄っすらと感じていながらも上手く扱えない。

2000年代になる前はまだ上手くいっていた部分もあったが、
多様性と個人主義が進むにつれて難しくなり、
今ではほんの一部だけが上手く扱っている。

だが、こうした問題点はAIが発達するにつれて解消され、
合理的な物事の捉え方は人類が自ら行う必要を無くす。
単純に言えば、凄く便利になる。

しかし…。と考えてしまうのは、おそらくだが、
合理的な意思決定が自由意志を殺すのではないか?
合理性で無駄が排除されるが、自分が無駄にならないか?
そんな懸念から来るものだろう。

だが、本当に懸念しなければならないのは、
感情や状態への配慮がAIに可能か否か?になる。

「Elephant in the room」みたいな状態は人が生み出すが、
その状態は感情からくる合理性が生み出している。
果たして、AIの合理性は「Elephant in the room」を
見事に解決していく程に発達するのだろうか?
そうだとしたら、本当に人の判断は必要無くなる。

だが、AIの合理性が人と同じレベルになったとしたら、
今度は「忖度」や「惻隠」の様な配慮が入るので、
合理性は損なわれる様になるので意味は無くなる。

合理的な物事の捉え方が便利で有益だと判っていても、
合理的よりも感情的に選ぶのが好きなのが人だ。
それこそが「Elephant in the room」かもしれないが、
それでも人は、合理的な便利さよりも、感情的な便利さを選ぶ。

だから格差は埋まらないし広がるんだろうが、
人の感情ってのは其れも楽しめたりするから不思議なモンだ。
  • 2019/05
  • 28 Tuesday
  • 20:16

軌道



幾つもの軌道を描けた、幾つもの軌道を選べた。
誰でも本来はその筈だった。

通り過ぎた過去は、既に確定した軌道となるので、
他に道が無かった、他に方法は無かったと思ってしまう。
そして其の軌道が現在の位置と先の軌道を決めていると、
自分でも決め付けて決まっていない軌道を決める。

少し想像してみよう。
不幸な事象が世間で発生すると悲しみや憤り、
悪者が誰で、罪と罰が何で、原因が何処かを知り、
究明や対策や解決の話を見聞きする時間を過ごし、
不幸な事象の側でも悪者側でも無い自分に、安心するんだ。

深く想像してみよう。
不幸な事象は世の中で1人が知り得ない程、
同時に世界の各地で起こっていて避け得ないし、
宗教や思想の違い、常識や道徳のズレ、個人の主観は、
誰がどう塞き止めようとしても止まらない、
これまでも、これからも、そして自分にも、だから安心しない。

心の軌道一つでも辿り着く位置は大きく変わる。
何処に辿り着いても正しくもあり間違いでもあり、
そんな事は辿り着いた自分にしか判らない。

不思議に思ってしまう事なのだが、
辿り着かない人は軌道を綺麗にしようとする。
もしくは、辿り着きたい位置の解らない人もそう。

漂ってるだけで軌道修正して辿り着く位置を決めれない。
軌道を綺麗に見せたがる癖に軌道修正が出来ないなんて、
その軌道に意味あるんだろうか?

辿り着けさえすれば、軌道なんて滅茶苦茶でもいいのに、
何かに躓いたり迷ったりしているうちに、
辿り着く事さえ見失って綺麗にならない軌道ばかり気にして、
行き詰まって息詰まって踠く事さえしなくなる。

軌道なんてどうでもいい筈なんだ。
早くても遅くても綺麗でも汚くても真っ直ぐでも歪んでも、
辿り着ける様に修正しながら進んでけばいい。
  • 2019/05
  • 27 Monday
  • 23:43

あの頃僕等は



あの頃僕等は、
いつもの溜まり場にバイクで集まって、
いつもの様にバンドや映画や喧嘩や女の子の話。

あの頃僕等は、
深夜のファミレスで翌日には忘れる様な話して、
気が付けば朝日が昇って欠伸しながら家路に着いた。

あの頃僕等は、
夢や未来が不確か過ぎて不安なのを隠しながら、
普通が何かも知らないで普通になりたくなかった。

あの頃僕等は、
くだらない話で盛り上がってる時間を繰り返しても、
いつまでも続かないと知りながら毎日を繰り返してた。

あの頃僕等は、
今の自分を許せる様な自分だったんだろうか?
本当に必要な物なんて知らないままで何かを欲しがった。

あの頃僕等は、
正しさが何か判らないまま正しさを語って、
思い通りにならない世の中を憎んでた。

あのね僕等は、
誰でも通る様な時間を過ごして、
誰でも躓く様な出来事で傷付き、
誰でも迷う様な道を歩んできた。

あのね僕等は、
何処にでもいるような誰かで、
何処かに行きたがってたけど、
何処かでは今も同じ様な時間。

今だった筈の時間はいつの間にか、
あの頃になって、
僕等だった筈の時間もいつの間にか、
其々の時間になって、
あの頃僕等は。
  • 2019/05
  • 26 Sunday
  • 01:50

論理と感情



男性は論理的な会話や解説を好むとされ、
女性は感情的な会話や説明を好むとされているが、
これは少し間違った捉え方に感じてしまう。

男性は答を論理で導き出したいのであり、
女性は感情のこもった答が欲しいのである。
と、するのは少し強引だろうか?

よく語られる論理と感情の話ではあるが、
どちらが正しいかを極論まで持っていくと答は簡単だ。
現状の人類が選択している事を正しさとしての話だが。

先ずは論理と感情が何であるかの話から始めるとしよう。

論理はつまり、掛け算の九九の様なものであって、
ある数字にある数字を掛けると答が出る。
3×4=12みたいな具合に決まった答を導き出す。

感情を同じ例えで表すと、3×4は12では無く、
25になったり1になったり19738になったりもする。
何故なら、それが好きだったり嫌いだったりだからだ。

こうして例えてみると如何にも論理が正しく思えるが、
次の話に移してみると正しさは逆転してしまう。

少子高齢化が進み景気が悪い日本にとって、
目下の課題は増加した高齢者と財政難だが、
論理的に解決しようと思えば簡単な方法がある。

70歳以上の老人は不動産を含む財産を子に相続、
もしくは国に収めて老人だけが暮らす土地に移住。
其処での暮らしは収めた財産に準じた年金制度にカタチで、
国が住居や医療などの費用を負担するものとする。
すると、貯め込んだ財産は次の世代に移り、
握られていた土地も若い世代が使える様になり、
老害なんて言われる現象も無くなるだろう。

かなりザックリな話でしか無いが、もし実現すれば、
少子高齢化も財政難も解消出来る可能性は高い。
まぁ、あくまで例としてだが可能性が高いとしよう。

しかし、人権だの法律だのの問題を抜きにして実現しない。
何故なら老人達にとっては、嫌な事だからだ。

長く暮らした土地で最期の時を迎えたい。とか、
自分の財産は死ぬまで保有し続けたい。だとか、
子や孫と離れて暮らしたくない。みたいな話は、
全て論理では無くて感情が根底にあっての話だ。

つまり、論理よりも感情が正しい事になる。

既に世界的に人口増加と資源や食料不足や環境汚染、
問題が山積みとなっている中で簡単に解決するには、
戦争やウィルスで40億人ぐらいが死ぬ事だ。
と、論理的には語る事が出来たとしても実現しない。
もし、自分が死ぬ側で無いとしても人は感情的に拒否する。

正しさが、多くの人々が望む事なのだとしたら、
論理よりも感情が正しくなるのが、この世界だ。

いずれ、テクノロジーが更に進化していき、
シンギュラリティが訪れた頃には感情も解析され、
論理と感情の溝が無くなったりとかしたなら、
もう少しはマシな世界になったりすんのかねぇ。
  • 2019/05
  • 25 Saturday
  • 03:50

感謝罪

色々なメディアでよく見るだろうシーンに、
問題を起こした誰かが謝罪するというのがある。

罪を犯した、誰かを傷付けた、社会を混乱に陥れた、
そう言った類の問題ならば公の場で謝罪は必要だろう。
公人ならば尚の事、解決策や賠償等を用意して、
経緯の説明と謝罪が必要とされるところだ。

其れは社会的道義の部分を考慮してみても、
公人や企業ならば大衆の納得を必要とするからだが、
よくある不倫等の犯罪では無い問題や事象で、
何か知らんが記者会見みたいなのをやるとさ、
「お騒がせして申し訳ありませんでした」って謝罪。
アレって先ずはメディア側が感謝を述べるべきじゃないの?

騒がせたのは問題起こした本人じゃあなくって、
メディアが勝手に騒いで大衆を騒がせたんだよね。
だって騒がせんのがメディアの仕事なんだから。
だから、謝罪させる前にメディアは感謝じゃないかな?

隠れて不倫だのしてたら大衆は誰も知らないから騒がない。
騒ぎようが無いのにメディアが盗撮だのして騒がせる。
だって、それがメディアの仕事なんだから、騒がせる。
仕事のネタ貰ったら、やっぱり感謝って必要じゃない?

そんでもって日常に騒ぎの楽しみ貰った大衆も、
暇しなくて済むんだから、やっぱり感謝じゃない?

騒がせんのが仕事だから騒がせてお給金を頂く。
騒いで日常の中に暇を潰す話題を提供して頂く。
その上で更に謝罪して頂く必要ってあんの?
むしろ感謝とかした方がいいんじゃないの?

まぁ、芸能人みてぇな場合はファンだのスポンサーだの、
仕事に関係する方々へは謝罪するべきだろうが、
それ以外の人々に謝罪する意味って何だろね?

問題の無い社会が良いとはよく聞くが、
問題の無い社会に本当になったのなら?
多くのメディアで報道関係はする事が無くなり、
天気予報と商品紹介と占いとかのオンパレードで、
視聴者や購読者は激減してスポンサーはいなくなる。
まぁ、平たく言って立ち行かなくなるだろう。

「交通違反は許しません!」って言ったところで、
本当に交通違反が無くなったら困っちゃう、
警察や国庫と同じようなもんなんだから、
やっぱり感謝を先に述べるべきじゃねぇかな。

御礼が言えない奴はダメな奴、感謝を忘れるのは罪、
って道徳だか何だったかで習ったよね?
忘れちゃったんかなぁ。って感じる時あるよね。

感謝を述べないと罪になる「感謝罪」とかあったら、
公人とか芸能人が何かしでかした時とかに、
感謝を忘れて謝罪して感謝されるって事になるんかな?

  • 2019/05
  • 24 Friday
  • 02:49

それは良い事

有識者の意見を見聞きしたがる人の数は多い。

不安や不明な事を知識のある人達の意見から学ぶ。
どうやら世の中的に、其れは良い事となっているらしい。



粗探しをするつもりは無いし、良いなら良い事だろうが、
有識者は単に有識者であって指導者や預言者では無い。

「AIが人間の仕事を奪う」なんて言葉を聞くと、
どうすれば自分は仕事を失わないで済むかを考える。
しかし、AIが何であるかもいまいち不明だし、
ひょっとして自分が職無しになる不安の解消も出来ない。
すると頼りになるのは有識者による意見だ。

有識者が語るところによると、何某の職業は安泰で、
AIは有効な活用法があるから人は単純作業から開放され、
よりクリエイティブな能力を発揮するべきだとか何とか。

「なるほどなぁ〜」なんて頷いてみても、
じゃあ、クリエイティブに誰もがなれるだろうか?
貴方が20代前半ならまだしも、40代前半なら?

そもそも誰もがクリエイティブになってしまい、
いくらでもオリジナルの製品やサービスを生み出せたら、
大量生産品は大量消費されなくなり経済は傾く。

大袈裟に言えばだが、大量の「右向け右」が、
大量の需要を生み出し大量の供給を可能にし、
大量の消費によって発展するのが経済だ。
誰もが違った方向を向いてしまったら経済は破綻する。

有識者の多くは、今の知識で未来について語り、
其れはつまり一つの予測でしかない意見だ。
競馬場でガナってる予想屋のオヤジとさして変わらない。

自己啓発や未来を読み解く系の本に書いているのは、
つまりはそーゆー事が殆どでしか無くて、
外れ9割の予想屋のオヤジに金を払うのと同じだ。

それでも、
自分の不安や不明な事が少しでも解消されるならと、
金を払いたいなら別に良いんじゃないだろうか。
何故だか知らないが、どうやら世の中的には、
それは良い事となっているらしいんだから。
  • 2019/05
  • 23 Thursday
  • 01:01

需要と供給



誰かが望む何かを提供する事が出来るか?
提供する何かを誰かが望む事に出来るか?

前者は需要への供給、後者は需要の開拓。
似ている様で異なるこの二つがビジネスの基本であり、
普遍的なルールの如く資本主義に横たわる。

しかしまぁ、この仕組みは人間関係においても通用し、
恋愛事なんかは、その最たるもんでもあるんだが、
あまりそういった考え方が為されないのは、
ロジックよりも感情的に捉えたいからのだろう。

生物としての人の最小単位は個人になるので、
例えを個人の食事にしてみるとしよう。

人類は一般的な生活を営むだけの栄養素の摂取を必要とし、
必要な摂取が行えないと身体に変調をきたしたりと、
思考するよりも肉体自体が需要を持ち摂取する。
これは需要と供給のバランスが存在しているからだ。

しかし、人類は栄養摂取の際に伴う味覚に精神的満足を得て、
必要以上の栄養素を摂取する行為を行うようになった。
これは「美味しさ」という需要が生まれた事が原因だ。
そうして増加したのが所謂、肥満という現象である。

この例えから何が導き出されるかと言えば、
需要と供給が本来のバランスであれば問題は起こり難いが、
新たな需要を生み出す事は、意図せぬ現象をも生み出す事。

ここで今一度、しかしと考える。
人類の文明や文化の発展は、意図せぬ現象によって起こり、
需要と供給のバランスを保っているだけでは起こり難い。

ただ、新たな需要や新たな供給が正しいと限らないのは、
個人の食事でも恋愛でも同じ事でしか無く、
必要としても得られず、必要とせずとも得れてしまう。

自分にとっての需要と供給。そのバランスは正しいか?
自分にとっても誰かにとっても需要を生み出するのか?
そして其処に派生であろう意図せぬ現象を楽しめるか?

以上、人生を需要と供給のロジックで捉えてみるでした。
  • 2019/05
  • 22 Wednesday
  • 08:07

何でもない話

出来るだけ大袈裟に何でもない話を誰かに語る。
仕事や食事や趣味や友人や自分の悩み事なんかを。



大袈裟にしておかないと何でもない話は流されてしまうから、
何でもない話を何かがある話の様にしなきゃならない。
誰かの関心を引きたがる時に人はそうする。

理解や受け入れを会話によって得る際に、
人の脳内は性交渉に勝る快感で満たされていく。

理解や受け入れを得る為に何でもない話を
理解して貰い易く、受け入れてくれ易く、
何でもない話だと流されてしまうから大袈裟に、
何でもない話を何かがある話の様なフリして。

面と向かっての会話だと、何でもない話だとバレるから、
画面越しに、自分のペースで何かがある話かの様に、
面と向かって快感を得る性交渉に満たない、
自慰行為を誰かに理解して受け入れて貰う。

そうやって理解して受け入れて貰う為に大袈裟になった、
何でもない話の何でもない自分は変容していき、
何ともなかった暮しが何ともならない暮しになり、
何でもない話ですら何かがある話の様に感じてしまう。

ありふれた何でもない話の何でもない自分は、
理解して受け入れて貰う為に大袈裟にしているうちに、
あり得ない何かがある話の様に何でも感じる、
自分でも理解も受け入れも出来ない自分になって、
何でもない様な事すら何ともなく出来なくなる。

そんな公開オナニーマン達が増えたとしても、
嬉しくも悲しくもない、何でもない話でしか無い、俺。

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