世間が良いと言っている物の価値を知る。
自分が良いと思った物への価値を見出す。
価値があるとされた物に価値を定義する。
価値観の持ち方だけでも印象は変化する。
世間が良いと言っているから。
自分が良いと思ったから。
価値があるとされているから。
もしも経済的な視点で本当に価値がある物を決めるなら、
最も価値が無いのは、自分が良いと思った物だ。
価値が一定の変動を繰り返すが変わらないのは、
価値として定義された、価値があるとされている物だ。
一番流動的で変動の幅が大きく不確実なのは、
世間が良いと言っている物に他ならない。
多くの場合に、
そうなりたいとか、ソレに勝たなければと思ってしまうのは、
世間が良いと言っている物に対してなのかも知れないが、
実際には、ソレに勝たなければならないのは、
自分が良いと思ったから価値があるとしてしまう意識。
自分が良いと思い自分で価値を見出してしまうと人は、
その価値観に対して正解である情報を多く求めてしまう。
逆に不正解な情報は、情報自体の誤りを求め認めなくなる。
その価値観は果たして現実社会に通じるか?
存在はしていても誰にも知られないままの生物は、
現実社会では存在していないとされるのが現実社会。
逆に存在していないのに誰もが知っている生物は、
現実社会にも存在しているかの様にされる現実社会。
ツチノコやネッシーみたいな価値が当然な現実社会で、
自分だけが持っている価値観って、存在してるの?
きっと、物創りとか表現とかしてる人達は、
気が付いてなくとも始めた時点で選択を迫られる。
新しい価値を生み出すか、既存の価値に入り込むか、
どちらを選んでも自分に合っていれば間違いでは無いが、
一番良くないのは、気が付かないままでいる事。
気が付かないで、物創りとか表現って価値を
言い訳にして印象だけ良くしようとしてる人達の、
価値観の印象ってのを聞いてみたい。
多分、そんな事すら考えてもいないだろうけど。